定住財団スタッフの日々のつぶやきをお届けします。
昔、はじめて就職をした会社の先輩から口酸っぱく教えられていたことの1つに、
「評論家になるな、実践者であれ」というものがあります。
この評論家、という言葉が適切なのかわかりませんが、
ここで先輩が表現したかったのは、
「主体(相手)の思いや背景は、本当のところ、主体にしかわからない。
だから、よく知りもせずに無責任に評することは恥ずべきことだ。評するまえに自ら補完せよ」ということだそうです。
なんであの人はこうするのだろう?(なぜこうしないのか)
なんでこれはこうなっているのだろう?(なぜ改善しないのか)
という感覚はとても大事で、大切にしないといけないものだと思います。
(この視点がなければ物事が良くなっていかないですし)
ただ、一方で、その主体の思いや、そこに至る背景に「敬意をもって思いを馳せる」、ということが
改善をする、ということよりも、実はもっと大切なことなんじゃないかと、思うようになりました。
ひとは、多かれ少なかれ、いつも思いをもって仕事をしたり、家庭をつくったり、地域にむきあったりしています。
(おもしろ半分に評することは論外ですが)良くしたい、という思いがあるならば、なおのこと
その主体の思いや背景を「ちゃんと聴く」ということが大事なのではないかと、折に触れ思うのです。
そして、足りないところがあるのであれば、評しておわりでなく、自ら率先して補完していくことが、求められていることなのではないかと思っています。
補完していく過程で、その主体(相手)の思いや、そこに至ったものに触れることができ、
より深い改善につながるのではと思うのです。
(結果的にその主体が能動的に変わってくれることになるので改善が早い→つまり目的が改善ならこっちが合理的)
目の前をながれていくうわさ話やワイドショー、本人にはつたえないひそひそ話。
自分自身も気づけば評論家になっていやしないか、敬意をもって思いを馳せられているだろうか、
ちゃんと聴く、ということができているだろうか。
あらゆる面において、あらためて点検したい。
(珈琲うどん)