定住財団スタッフの日々のつぶやきをお届けします。
先日長男の運動会があり、月曜代休ということで、久々二人でお出かけできることになり、映画に行こうと思い立ちました。長男は「ドラゴンボール」希望でしたが、まだ公開前だったため、今見れそうなもので私の見たいものを選んだ結果、「犬王」になりました。
が、「犬王」ってなに?ってことで調べると、声優がアヴちゃん、森山未来、榎本佑ということで、期待大で臨みました。
時代は室町時代、足利義光が南朝の後亀山上皇から三種の神器を取り戻そうとしていた頃のお話し。その三種の神器の一つの剣が、壇之浦の海底で見つけられたことから物語が始まります。
なぜか、壇之浦、平家と聞くと、悲しい気持ちになるのは、平家物語の琵琶法師の音と語りのイメージによるものだと思いますが、私もまさになんだかドロドロしたものを思い出します。その感じがありつつ、新しい琵琶の形をする主人公とそれに合わせて猿楽から新しい踊りの座を立ち上げる主人公の躍動感がとても新しい映画でした。
アニメーションも、松本大洋さんが描いているとのことで、絵巻物のような日本的な表現、墨絵のようなアニメでも十分情景を表せていることも感動するアニメでした。
こどもは、お面が怖くて途中見れませんでしたが、母は満足な映画デートでした。
いよいよ11日に、ドラゴンボールも始まりましたので、また次はこちらも見てこようと
思います。
(かん)
我が家に家族が増えました。
白柴犬の男の子です。
3月9日生まれで、3か月が過ぎましたが、日に日に体重が増えると共に、やんちゃぶりも半端なく、予防接種を2回打つまで部屋飼いをしているのですが、ゲージと共にホームセンターで買ってきた柵をあわせて活動できる範囲を広くしたのはいいのですが、すぐに飛び越え脱走。
組み合わせた柵に、更に100均で購入した柵を上までつなげ加工。
これで大丈夫と安心していたら、その柵を更によじ登って脱走。
今ではその柵の上に、すだれを広げ蓋をし、何とかそこで脱走できずに今日までに至ります。
もちろんそれでも窮屈なので、そこから出してやると喜んで、部屋中を駆け回り、
手が付けられませんが、それでもかわいくていつも家族の中心の存在になりました。
動物の成長の速さは、本当にすごいものがあります。
どんどん大丈夫だったものが大丈夫ではない状況になり、こちらとの知恵比べをしてきました。
50歳を目前にして、後退していくばかりの私ですが、これからでも成長を感じられることを見つけ、頑張っていきたいと思います。
PS:白柴だったはずが日に日に茶色が混ざってきていて、将来茶柴になるのかもしれません。
(雀)
今日の晩御飯はなんだろう・・・?
出勤途中の車の中で自然と考えていることです。
「和食かな・・・洋食かな・・・中華かな・・・はたまた外食か・・・」
今日は晩御飯のために早く仕事を切り上げよう!
この決意表明を毎日しながら出勤します。
不思議なものでいざ仕事が終わってみると、
毎朝あれほど考えてしまう「今日の晩御飯はなんだろう・・・?」という
気持ちはどこかへ消えてしまい「今度の休みは何しよう・・・?」という
新しい感情が芽生えてきます。
今、この文章を書きながら「今日の晩御飯はなんだろう・・・?」と思っている
感情もあと数分後には「今度の休みは何しよう・・・?」に変わるんだろうなと
思うと自分のポジティブさに救われます。
結局、食べることも遊ぶことも好きなんだろうなと。
「この夏はどこかへ遊びに出かけて美味しいものでも食べようかな・・・」
(だいきち)
最近、通勤電車の中で、若い方が高齢者の方へ席を譲る場面に、何度か遭遇しました。
どなたもとても自然で、声をかけられた高齢者の方も、遠慮されることがあったとしても、声をかけられたこと自体に、とてもうれしそうなお顔をされていました。
朝夕の通勤時間の電車はかなり利用者も多く、場合によっては立ちっぱなしでいくこともありますが、そうした場面を目にすると、じんわり温かなエネルギーをもらい、電車の中で立っていることのプラスの面に意識を向けることができます。
他の人が座る席を提供できている(はず)!足腰を(わずかでも)鍛えることに役立っている!車窓の風景を(いつもよりは)ワイドに眺められている!など……。
特に、先頭車両の真正面の車窓の景色は、立っていなければ眺められない風景で、延々と続く線路とその両端に次々現れるまち並みの展開が楽しく、ちょっとしたご褒美をもらった気持ちになります。
「立ちっぱなしの電車」という出来事は同じでも、それをどのような角度で見るか、どんな立場で捉えるか、によって、心持ちは全く変わります。さらに、他人へ贈っていけるものがあれば、気持ちの豊かさは倍増するように思います。
通勤電車の中の小さな出来事から、ささやかだけれど大切な教えをもらう今日この頃です。
(でんでんむし)
昔、はじめて就職をした会社の先輩から口酸っぱく教えられていたことの1つに、
「評論家になるな、実践者であれ」というものがあります。
この評論家、という言葉が適切なのかわかりませんが、
ここで先輩が表現したかったのは、
「主体(相手)の思いや背景は、本当のところ、主体にしかわからない。
だから、よく知りもせずに無責任に評することは恥ずべきことだ。評するまえに自ら補完せよ」ということだそうです。
なんであの人はこうするのだろう?(なぜこうしないのか)
なんでこれはこうなっているのだろう?(なぜ改善しないのか)
という感覚はとても大事で、大切にしないといけないものだと思います。
(この視点がなければ物事が良くなっていかないですし)
ただ、一方で、その主体の思いや、そこに至る背景に「敬意をもって思いを馳せる」、ということが
改善をする、ということよりも、実はもっと大切なことなんじゃないかと、思うようになりました。
ひとは、多かれ少なかれ、いつも思いをもって仕事をしたり、家庭をつくったり、地域にむきあったりしています。
(おもしろ半分に評することは論外ですが)良くしたい、という思いがあるならば、なおのこと
その主体の思いや背景を「ちゃんと聴く」ということが大事なのではないかと、折に触れ思うのです。
そして、足りないところがあるのであれば、評しておわりでなく、自ら率先して補完していくことが、求められていることなのではないかと思っています。
補完していく過程で、その主体(相手)の思いや、そこに至ったものに触れることができ、
より深い改善につながるのではと思うのです。
(結果的にその主体が能動的に変わってくれることになるので改善が早い→つまり目的が改善ならこっちが合理的)
目の前をながれていくうわさ話やワイドショー、本人にはつたえないひそひそ話。
自分自身も気づけば評論家になっていやしないか、敬意をもって思いを馳せられているだろうか、
ちゃんと聴く、ということができているだろうか。
あらゆる面において、あらためて点検したい。
(珈琲うどん)