定住財団スタッフの日々のつぶやきをお届けします。
最近、『一汁一菜でよいという提案』という本を読みました。
一汁一菜とは、ご飯、味噌汁、漬物を原点とする食事の型で、何でも入れた具だくさんの味噌汁を作ることを提案されていました。
味噌汁だけで大丈夫?と疑っていましたが、実際に試してみると、味の幅も広がるし、思わぬ手軽さもあることに気づきました。
もともと味噌汁というと、メイン料理ではないもの、無くてもいいもの(実際に無いことが多い…)、手間のかかるもの、というように考えていました。
しかし、味噌汁に何でも入れても良いんだよ!を実践してみると、味噌汁の概念が変わりました。
(やってみたこと)
・冷蔵庫にあるもの(野菜だけでなく、ウインナー、ちくわ、納豆…)を、組み合わせを考えず入れる
・前日の余ったおかず(肉・魚…)を入れる
・これまで入れようと思ったことのなかったもの(トマト、きゅうり、チーズ、梅干し、サバ缶…)を入れる
こうして作った味噌汁は具だくさんになり、味もまとまる上に、毎回違った味わい深さを楽しめるようになりました。
味噌汁はこういうものといった固定概念を取り払ってやってみると、大げさに言うと、味噌汁の世界観が変わり、新たな食事の楽しみを発見しました。
みなさんもぜひ試してみてください!
(K)
「釣りに行きたい!」「五島列島に行ってみたい!」という父の思いを受け、この夏、4世帯合同の家族旅行に出かけました。
雲ひとつない晴天に恵まれ、9月中旬とは全く思えない暑さに汗ダラダラになりながら、長崎県の端っこの島を訪れました。
地元の釣具屋さんで教えていただいたスポットで、義弟が用意してくれた釣り竿をたらし、左右前後に揺らしてみたりしながら、食いついてくれる魚を待つひととき。
そのうち、ずぶの素人の餌にも飛びついてくれる奇特な小魚があり、反応が伝わる指先の感覚と、釣り上げる瞬間に、短時間でしたが夢中になりました。
昔、嬉々として釣りに出かける父の姿を、「基本的に待っている作業の何が楽しいんだろう?」と不思議に思っていましたが、実際に体験してみると、自分の中に眠る狩猟本能のようなもの?が呼び覚まされる感覚がありました。
そして何より、今年に入って大きな病気を経た父が、ひとまわり細くなった気がする腕でも器用に釣竿を操り、誰よりも釣果を得て笑顔をのぞかせていたこと、家族みんなで一緒に時間を過ごせたことがとても嬉しく、ハラハラする場面もありましたが、「行って良かった」と心から思いました。
「遠くへの旅は今年で最後」と言っていた父ですが、五島列島の旅から無事に帰ってこれたのが自信になったのか、「来年は○○に行きたい!」という妹の言葉に、まんざらでもない様子。
来年も、再来年も、その先もできるだけ長く、こうした時間を積み重ねていけるよう祈っています。
(でんでんむし)
先日、飛行機に乗ったときのこと。
席に着いて離陸を待つ間に、隣の席の方がCAさんに「ログチョウ、もし余裕があったらお願いできますか」となにやら渡していらっしゃる。
ログチョウ…?
眠たかったこともあり、隣の方に尋ねてみたりはしませんでしたが
後から調べてみると、飛行機の搭乗記録をつけるもののようでした。
ログ帳ですね。ログノートとか、フライトログブックとか呼び方は色々あるようです。
自分でつけるだけではなく、乗った飛行機のCAさんに書いてもらうことができるんだそうです。
私はなにかを「集める」ことをすることがないのですが、
御朱印や駅のスタンプ、ダムカードなど、世には色々ありますね。
お隣の席の方は移動が多いのか旅行がご趣味なのかは分かりませんが、
いい楽しみ方だなぁと思いました。
こういう世界があることを見せてくれてありがとう、お隣の方。
飛行機が着陸して、降り際にCAさんからログ帳受け取っておられました。
(は)
今年ももう10月です。朝晩はだいぶ涼しくなりましたね。
夏のイベントは暑過ぎてあまり外出しなかった我が家も、少しずつお出かけする機会が多くなってきました。
先週末は、松江市内で開催された、土曜夜市に行ってきました。
土曜夜市のサイトを見ると、実行委員会を立ち上げ昨年30年ぶりに復活開催し、今年も開催されたそうです。
花火大会の時の屋台とは少し違い、地元のお店が多く出店されていて、新たな美味しいお店の発見もあり家族みんな大満足でした。
イベントといえば、今月19日は「しまね移住フェア&しまね暮らしマルシェ移住in東京」を開催します。皆様のお越しをお待ちしております♪
イベントサイト:https://www.kurashimanet.jp/shimane-migrationfair-marche2024tokyo/
(団子)
「普通だったらこうするだろう」
職場でも家庭でもよく交わされる会話である。
常識から考えてこの言動や思考に至るのが当然だ、と大部分の人が同意することが前提の表現だ。
便利な言葉なので、自ら発することもあれば、相手から同調を求められ、「そうそう」と答える場面も少なくない。
しかし、100%共感しているかというと、いくらかは相手に無理に合わせている部分も正直言ってある。
そもそも「普通」の定義自体曖昧だし、明らかにみんなの常識から外れていなければ、その場で最初に発言した人の「普通」がその後の標準となる場面もありそうだ。
自分の「普通」に絶対的自信を持っている人なんて、そんなに多いわけじゃないだろうから余計にそうだ。
世の中には誰が見ても普通だと納得するエリアと、普通じゃないと認めるエリアがある。
これらの中間にはどちらとも言えないグレーのエリアがあって、その部分を確固たる自信まではないが、他人との距離を縮める共感の道具として使う傾向があるのではないか。
現に
「普通って何ですか?」
と問われて明快な解答ができる人はどれだけいるだろう。
最近
「普通、それは違うだろう」
と思ったものの、ひょっとして自分だけが外れた考え方をしているのではないかと心配になる場面があったので、「普通」を普通に使いすぎていたことを改めたいと思ったのだった。
「普通」でひとくくりにまとめようとせず、多様な考えの可能性を尊重したいものだ
(蝮)