定住財団スタッフの日々のつぶやきをお届けします。
先日、車で通勤中のこと。通勤時は車が連なっているのですが、私の一台前の車が、特に信号や横断歩道もないところでゆっくりと減速しました。
「あれ?」と私も合せてゆっくり減速。すると、リヤガラス越しに前のドライバーが見えたのですが、「どうぞ、どうぞ」と合図を送っていました。
私の角度からは見えにくかったのですが、どうやら道路沿いの見通しの悪い敷地から合流しようとしていた車を入れてあげたようでした。
朝の通勤時は、皆急いでいます。そのため、「お互い急いでるなら俺が先だ」と言わんばかりに我先へと急な割り込みをしたり、遅い車を煽ったりするシーンを目にすることがたまにあります。
しかし、私の一台前の車の方は、「あなたもきっと急いでいるのだから」と、入れてあげたのだと思います。
普段生活していると、コンビニのレジに並ぶとき、エレベーターに乗り込むとき等、相手がご高齢の方であったりしても我先にと割り込んだりするシーンに出くわすことがあります。
された方は大変嫌な気持ちになるのですが、だいたいこういうことをする方は何にも気にしないどころか、「割りこまれた方が悪い」という態度をとることもしばしば。
自分のことしか考えていないなぁ。小さいなぁと感じます。
一方で、重たい扉のある施設等で自分が先に入らず、扉を開いて先に後続のご高齢の方を入れてあげるような方や、前述の合流しようとしていた車を行かせるような方を見ると、人間としての大きさを感じて、暖かな気持ちになります。
忙しく、また情報量も多く高速化している昨今、皆心の余裕を持つことが難しい時代なのだと感じています。
しかし余裕がなく、自分のことしか考えられないような状況であるときこそ、周りの人のことを考え「どうぞ、どうぞ」とできるように日々を過ごそうと思うのでした。
(つかさ)
先日、久しぶりに映画を見に行きました。私の住む地域は映画館がなく、年に数回文化ホールで若干ピークを過ぎた映画が上映されます。
今回は気になる映画だったので初めてそのホールに行ってみました。
映画館とは違うため、スクリーンの大きさや音響など不安があったのですが、全く問題なく広いホールでゆったりと楽しむことができました。
私が島根に住み始めた当初は気軽に行ける場所に映画館やボーリング場などがあったのですが、どれも閉店になってしまい、寂しい気持ちでいっぱいでした。島根のよいスポットもたくさんありますが、文化施設がもっとあればと節に願う今日この頃です。
(ちょこ)
この時期になると我が家の庭に可憐な額アジサイ「隅田の花火」が咲きます。花の姿が“打ち上げ花火”を思わせることから付いたそうです。花のように見えるのは装飾花で実際の花は真ん中にある小さな花たちです。二段重ねの八重の花びらですが、軸が少し長いため、まるで花火が打ちあがったように見えます。我が家の「隅田の花火」は、最初は真っ白ですが、そのうちに薄い水色に変化します。花は結構長い間楽しめます。
紫陽花(アジサイ)は咲いてから散るまでの間に花の色を変えることから、代表的な花言葉は「移り気」が有名です。小さな花の集まりから「家族団欒・家族の結びつき」というプラスイメージの花言葉もあるそうです。
我が家の「隅田の花火」は、鉢植えを買ってから挿し木をして増やしました。たいした手入れもせず、この時期楽しませてくれます。
(山ちゃん)
先日、妻の実家がある江津市に行ってきました。久しぶりに義理の父と母に挨拶をしてきました。その途中で「県外からきて、江津で頑張っているパン屋さんがある」と聞き、立ち寄りました。
そのパン屋さんは「Tugumi」という店で、「蔵庭」というレストランに併設されていました。
場所は、江津市中心部から江の川をさかのぼった「松川町下河」。こんな山にあるの?」といいながら、車を走らせていると、坂の上に風情のある日本家屋があり、庭を抜けた先にパン屋の入り口が。
お昼時にお邪魔したので、ひっきりなしにパンを買い求めるお客さんが来て、とてもにぎわっていました。
さっそく私も何個かパンを買い求め、頂きました。もちもち、しっかりとした触感。一個だけで満足感のあるパン。もちろんとてもおいしかったです。
県内に移住して、頑張っている方に出会えたことに感謝し、島根を盛り上げてくれている方が、今後も増えていくことを願いながら、おいしいパンをペロペロっと3つも食べてしまいました。これまで以上に妻の実家(江津)に行く楽しみが増えました。
(熊猫)
社会人として、職業人として四半世紀が経過した私ですが、もうこの年になると日々の生活の中で、周りから見て「知っていて当たり前、できて当たり前」なる事が、当然多くなってきました。(一般的年齢からみると恥ずかしながらまだまだではありますがね)
ただ、父の他界に際して、初めて取り仕切る葬儀や四十九日の段取り、お布施の額や満中陰志なるものの存在など・・・・・全くわからないという初体験をここにきて経験しました。
悲しみに浸る時間もほとんど取れない中、仕事と並行して様々な手続きをし、それでもまだまだ残っている後処理に今も追われてはいますが、亡き父から教えられたこと、その一連の中で関わった様々な「組織や人たち」のありがたさ。
こういった経験一つ一つがまだまだ半人前の私の成長を後押ししてくれました。
改めてひとりではないということを熱く実感することができました。
まだこれからいくつもの人生の階段を上っていくのでしょうが、それらすべてが定められた成長への段階ととらえ、しっかり受け入れて精進していきたいと思います。
PS:)先週の日曜日は父の日でしたが、そんな気持ちを報告すると、仏壇の上に掲げられた遺影が少しだけ微笑んだような気がします。
(雀)