定住財団スタッフの日々のつぶやきをお届けします。
今年ももう10月です。朝晩はだいぶ涼しくなりましたね。
夏のイベントは暑過ぎてあまり外出しなかった我が家も、少しずつお出かけする機会が多くなってきました。
先週末は、松江市内で開催された、土曜夜市に行ってきました。
土曜夜市のサイトを見ると、実行委員会を立ち上げ昨年30年ぶりに復活開催し、今年も開催されたそうです。
花火大会の時の屋台とは少し違い、地元のお店が多く出店されていて、新たな美味しいお店の発見もあり家族みんな大満足でした。
イベントといえば、今月19日は「しまね移住フェア&しまね暮らしマルシェ移住in東京」を開催します。皆様のお越しをお待ちしております♪
イベントサイト:https://www.kurashimanet.jp/shimane-migrationfair-marche2024tokyo/
(団子)
「普通だったらこうするだろう」
職場でも家庭でもよく交わされる会話である。
常識から考えてこの言動や思考に至るのが当然だ、と大部分の人が同意することが前提の表現だ。
便利な言葉なので、自ら発することもあれば、相手から同調を求められ、「そうそう」と答える場面も少なくない。
しかし、100%共感しているかというと、いくらかは相手に無理に合わせている部分も正直言ってある。
そもそも「普通」の定義自体曖昧だし、明らかにみんなの常識から外れていなければ、その場で最初に発言した人の「普通」がその後の標準となる場面もありそうだ。
自分の「普通」に絶対的自信を持っている人なんて、そんなに多いわけじゃないだろうから余計にそうだ。
世の中には誰が見ても普通だと納得するエリアと、普通じゃないと認めるエリアがある。
これらの中間にはどちらとも言えないグレーのエリアがあって、その部分を確固たる自信まではないが、他人との距離を縮める共感の道具として使う傾向があるのではないか。
現に
「普通って何ですか?」
と問われて明快な解答ができる人はどれだけいるだろう。
最近
「普通、それは違うだろう」
と思ったものの、ひょっとして自分だけが外れた考え方をしているのではないかと心配になる場面があったので、「普通」を普通に使いすぎていたことを改めたいと思ったのだった。
「普通」でひとくくりにまとめようとせず、多様な考えの可能性を尊重したいものだ
(蝮)
保護猫を我が家に迎えて1年半たちました。
当初、初めての猫との生活で、壁ひっかいたらどうしよう?トイレきちんとしてくるかな?外に出たがらないかな?
などなどいろいろ不安もありましたが。
爪研ぎがついたキャットタワーで一生懸命爪を研ぎ
トイレの失敗もなく
廊下に出たがることもなく、限られた空間の中で、窓の外の虫をみたり、鳥の鳴き声をじっと聞いていたり。
こちらが思うほどに外に出たい気持ちはなさそう。(猫の気持ちはわかんないですけど。。。)
微妙に猫さん独特な距離感はありますが、甘えたい時はまとわりついて体をすりすりしてきたり、猫なで声で泣いたり。
ホントにただただそこにいるだけで幸せって思う今日この頃です。
(雪んこ)
週に一度楽しみに見ているのが、芸能人がテーマに沿った『俳句』を詠み、先生から猛烈なダメ出し(時々称賛)を受ける番組だ。
先生の言葉ひとつに一喜一憂する姿から、本気で向き合っていることがうかがえ、イチ視聴者であるこちらまで一緒になって情景を想像したり、より良くなる表現を考えたりする。
たった五・七・五の中でも、日本語にしかない曖昧で豊かな言い回しや語彙、表現がある。
日本語は独特で、他の言語に訳すにもぴったりな単語がなく、そのまま使われているものも多い(かわいい、もったいない、せつない等)。
そもそも漢字、ひらがな、カタカナを使い分けている時点で難解だ。
それなりに使いこなしているだけで、自分は凄い気がしてきた。
ただ一つ、昔から困っていることがある。
これだけ語彙が豊富な日本語であるのに、「二人称」が極端に少ないことだ。
例えば街中ですれ違う人が落とし物をしたとする。
「そこのあなた(君)!」ではなんとなく失礼な気がする。
「そこの男性(女性)!」というのも言い慣れない。
結局は「あのーすみません!」に行き着く。
初対面で相手の名前がわからない場合もそうだ。
「あなた(君)はどう思いますか?」とは言いづらい。
また最近では他人の配偶者を指す丁寧な表現も難しい。
ご主人様や旦那様、奥様というのは家制度が色濃くある時代からの表現で、違和感を感じる人もいるらしい。
では名前がわからない場合、何と言うのがベストなのだろうか?
そろそろ、誰かがちょうどいい言葉を作って広めて欲しいと思う今日この頃です。
(R)
この夏、出身の地元で高校同期の同窓会があった。
私の卒業年次は200人を超える同級生がいたが、今回参加したのはその内約80人。
還暦の年に卒業以来42年ぶりの同窓会であり、その後オリンピックイヤーに合わせて4年ごとに開催しようということになり、今回は4年ぶりの再会であった。
さすがに前回の42年ぶりの同窓会ではだれが誰やら、誰が生徒で先生か、という状況であったが、今回はおおよそ顔、名前も一致し「元気だったか」の声が起こっていた。この歳になると4年くらいでは大きな変化はないようである。
しかしながら数少ないとはいえ物故者も何人かいた。高校時代の笑顔や活躍が目に浮かぶ。ご冥福を祈るばかりである。回を重ねるごとに同じ思いをすることが増えるのだなと寂しく思われた。
また、参加してこない同級生も多数いる。簡単に「参加して来いよ」とも言いにくい。それぞれの事情で参加したくない、という思いの人もいるはずだ。まさに❝人生いろいろ❞である。
楽しい思いのほうが大きいけれど、一抹の寂しさも感じるのが同窓会である。
とはいえ、次回はまた4年後。みんなと元気な顔で再会できるよう4年間また頑張ろうと気持ちをあらたにした。
(ダボ)